美女とコーヒーの出てくる本を紹介します

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美女と美味しいコーヒーのある本をご紹介

今更な、タイニー・タイニー・ハッピー

〜仕事前に一杯〜

今更、タイニー・タイニー・ハッピー(飛鳥井千砂)を読んでみた。物語の主人公は章ごとに変わるが、それぞれが全く異なった世界を歩むのではない。皆、タイニー・タイニー・ハッピー略して「タニハピ」と呼ばれる大型のショッピングセンターを中心にぐるぐる回るのだ。

 タニハピではアパレル、飲食店、雑貨など様々テナントが軒を連ねており、私には地元近くのショッピングモールが思い浮かばれた。年中煌びやかに装飾されており、あれだけの人々が往来する中でもイイニオイが鼻腔をくすぐるあの建物だ。あれは香水か、それともまだ買い主不在の新しい服や靴のニオイか私には分からない。私の町は全国的に言って「田舎」と称される部類であるが、そのニオイは私にとって都会文化的薫香であった。

 作中の人々はタニハピ中央フロアの一階に入っているコーヒーショップに度々足が向かう。羨ましいかな、このコーヒーショップは24時間営業である。私の近所では23時が門限のマクドナルドが最長の夜更かし様であり、その他の店は早々に寝静まる。23と24では1程しか変わらない。しかして、そこには大きな広がりがあるのだ。つまり、早朝にコーヒーを啜れるか否かある。早朝にすするコーヒー。まだ通勤者もいない青い朝。今日の始まりのような時間であればなお良い。普段の日常とは異なる、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚で啜るコーヒーほど心を働かせるものは無いと思う。非日常に飢えた私にとって、それは小さな旅行であり、早起きのご褒美なのだ。

家飲み推進連合会入会のしおり

 今週のお題「家で飲む」と。私は何を隠そう家飲み推進連合会の一員である。家飲み推進連合会とは「お店で飲むより経済的に優しいから」を理念に月に4〜5回は呑んだくれることを目標とした者たちの集まりである。いくら経済的に優しくても頻繁に開催されては辛いものがあり、月末にはお金が足らないと困窮することが会員全員の悩みであった。それでも推進連合会員は家飲みの言わば専門家であり、初代会長はこれを『宅飲み(Takunomi)』と名付けたらしい。現在は全国にこの用語が広まった。

 私は新参者ではあるが、立派な家飲み推進連合会員を自負している。そのためには『家飲み』の一家言に飽き足らず2~3家言持ち合わせていなくては示しが付かないというものだ。家飲みの大きな利点として経済的に(一回あたりの経費は)優しいことは既に述べた。次に特筆すべきこととして、親密な仲間内の会合であれば自由にコロコロと横になり、酔いに身を任せ夢世界へ赴くことも可能なのだ。お酒は人を笑い上戸、泣き上戸と変身させるが、私の場合は麗しい眠り姫になるらしく、自由に横になれる場所というのは非常にありがたかった。もしこれがお店であるなら、そんな無防備な姿を晒すわけにいかずにメトロノームよろしく体を揺らし続ける羽目になる。

 家飲みの素敵要素に関して、読者諸君は既に籠絡寸前であることは手に取るようにわかる。だがしかし、中にはまだ私の誘惑に反発して「お店の方が美味しいし」とのたまう反家飲み主義者が隠れていることもお見通しである。心して傾聴せよ。家飲みではトランプゲームやテレビゲーム、漫画といった娯楽をも楽しむことができる。これはまさに至高と嗜好のハイブリッド的誘惑であろう。反主義者といえど、これに抗うことは出来まい。私は拳を掲げ勝利を確信する。肋骨を押し拡げるように息を吸い、喉に力を入れ一瞬の静寂を作る。直後、遠くの大衆にも届くよう声高らかに叫ぶのだ。「誰か家飲みのために、お部屋を提供してください。私の部屋ですか?嫌ですよ。散らかされるのはごめんです。」

そして私もアイドルになる

今週のお題「アイドルをつづる」と言われても私はアイドル事情に疎い。5人以上で歌う女の子は皆AKBという大企業の一角だと思っているし、艶めかしく腰を振る彼女はKPOPと認識が変わる。そして条件がそのまま男性になればジャニーズかエグザイルであった。つまり、その手に関しては素人も同然なのだ。しかして諸君、私はアイドルを避けているのではない。むしろアイドル級の女の子は私にとって天使も同然であり、そんな彼女から告白でもされようものなら「これは死に際に見る妄想か。一般には走馬灯らしいが、どうやら私は妄想灯が駆け巡るほど女性に飢えていたらしい」と自身のモテなさを悲観するのだろう。アイドルを前に悲観し涙を流すとは私のネガティブ心も相当である。

 私はアイドル全てに臆す訳ではない。私にもしっかりと目を見て応援できるアイドルがいた。彼女は見た目もさることながら、その一挙手一投足まで愛らしい。もちろん人間である彼女は常に聖母のごとき微笑みを携え、関わる人全てに「いつも、ありがとうねー」と感謝の言葉を届けた。まさに王道ともいうべきアイドルではないか。アイドルというからには容姿だけでなく、歌唱力も必須と思われるが、その部分に関しても抜かりはない。彼女の十八番は『憧れのハワイ航路』。どうやら今から60年ほど前に歌っていたらしい。

 彼女は昭和生まれであるが、その年を知る者はいない。アイドルは永遠に年を取らないからでなく、彼女自身が年齢という概念を遠い昔に捨ててきたらしかった。彼女は既に聞いたことがある話を毎回楽しそうに語り、何かあると「飴、たべる?」とポケットを弄りつつティッシュや輪ゴムなどを床に飾った。彼女の無邪気とも言える行動一つ一つが愛らしく、どうやらその愛らしさは飾らない彼女本来の姿らしかった。

 人は他人の目を気にすることなく幼少期を過ごし、いつしか自身を着飾って周りのものに愛された。しかしてそれらの装飾は年を重ねるごとに、接着剤の効きが無くなるかのようにパリパリと剥がれていくのだ。最後には幼少の頃の自分が久方ぶりに日の目を浴びる。本来の私がどのような人柄であったか、色々なものを貼り付けた自分をいくら鏡に映しても既に見極めることはできないだろう。だが私のことである、きっと誰よりも愛らしく、清らかな心を持ったアイドルになれるはずだ。来るべきアイドル生活に向けて、私は目尻のシワを増やすことを始める。なぜなら、アイドルの第一条件は笑顔なのだから。

迷いは良いことなのです

 私は迷うことが得意である。それは幼少の頃、母が私に言った「日本は島国だからね。迷っても海外に出ることはないんだよ」という、今にして思えば『だからどうした?それでも迷子は怖いだろ』と即ツッコミを貰っても良かろう言葉に母性に似た安心感を得たからである。そのため私は迷うても狼狽なく、珈琲を啜ることができる。履歴書に『特技は迷うこと』と記せば、面接官は揃って「こんな人材はダメだ。彼を入れてみろ。たちまち我々をも迷いの森へ手招きするに違いない」と顔面蒼白にお祈りを送ってくることは火を見るより明らかであるから、私はこの特技を心にそっと仕舞いこんだ。

 大学生になったころ、私には将来を如何にして生き、謳歌し、如何にして美女と結婚するか… という難題が常に頭を支配していた。迷うことが得意な私であるから、そのような悩みや迷いはいくつも頭の中に存在しており、解決の手立ての無いそれらに昼も夜も寄り添っていた。その辺りから、どうやら私の周りで賢そうにノートを綴っている彼や友達とおしゃべりしている彼女らも常に何かしらで迷っているらしいと知った。加えて、数多くの先人方も若き頃は私と寸分違わぬ道で迷っていたというのだ。

 現代社会になり誰しもが迷う時代になったと言うが、それは誤りである。いつの時代も人々は迷子である。迷いを無くしてズンズンと歩むものはアホかドアホゥのいずれかで、そのようなものは生存競争から既に脱落している。今日、我々がこうして暮らしていることには迷いと、そこに生まれる思考があったからに他ならない。

 私は迷うことが得意である。そして今も解決の糸口を探すために右往左往と思考を巡らせています。これは良いことなのです。読者諸君、刮目せよ。私は今後も安心して迷って行くのだ。ウロウロと脳みその中を駆け回り、いつしか答えを見つけてみせようぞ。さらにはいつの日か『こんな私でも美女を奥さんに!今すぐできる美女攻略の7ステップ』を執筆するのだ。これぞ我が人生の意義であり、迷いの中に見つけた希望である。

 決断?そんなものは、するだけ無駄である。

母よ。

今週のお題「母の日」である。母の日を語るに際して、小っ恥ずかしさがフツフツと溢れてくるのは何故か。これは男性諸君であれば理解できると思うし、女性諸君に至っては「お父さん、いつもありがとう」と面と向かって言う時のソレに似ている。その言葉に偽りはないども、心には羞恥から身を守るための防護服を何重にも着込ませる必要がある。でなければ実の両親に対する真の愛など声門を震わせるほどまでに上がってこないのだ。

私の母は聖母ではない。かといって肝っ玉カーチャンとも言えない。彼女は言うなれば『テキトーであり寛容な人』であった。私がまだ純真無垢で目に満点の星空を閉じ込めていた頃に将来の不安について母に尋ねたことがある。母はしばらく思案したのち、「ご飯に困らなければ仕事なぞ何でも良い。成るように成るさ」とケ・セラ・セラと笑ってみせた。家族旅行の際に山道で道に迷ったらしい。彼女は窓の外を見て「日本は島国だからね。いくら迷っても海外に行くことはないよ」と語ってみせ、そういった言動には彼女の達観しているかの様が垣間見れた。そして、そんなテキトーかつ寛容な性格の母は私の母として満点であった。

10連休をRPG

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」ときた。10連休ともなれば『特大』や『SP』の文言を着こなすのも納得である。その様は数多の日本国民を娯楽へと導く。『golden』という横文字まで出てきたものだから、これは部屋の中でモヤモヤと燻っているべきではなく、一刻も早く熱気と活気と疲労の渦巻いた混沌たる場所へ赴けと、皆が囁き合っていた。しかして、早まることなかれ。この間にも勤労精神を忘れぬ、忘れるわけにはいかぬ勇者達がいることを。連休なぞ夢幻とばかりに労働に勤しむその姿には、拍手と労いの言葉をビールシャワーの如く浴びせたいと思う。

 かくいう私もこの連休を守る勇者の一人である。そして戸外を見渡せば案外に勇者が多いことに驚いた。彼らは口角が天に向けられた仮面装着するが、その眼球は忙しなく震えた。腕や足には乳酸をたっぷりと装備し、動きがままならない。もはや戦況は覆しようもなく『連休の娯楽』を求めた魔物達は慈悲なく行進を続けた。私は叫ぶ、勇者に回復を与えたもう聖女様は何処か。私に賛辞を送る美女は何処か。魔物達との戦の前にパーティーを揃えるべきであったが、そもそも私には聖女も美女もあてがない。結局のところ私は勇者などにならず、村人として逃げるべきだったのだ。

 私の胸中も熱気と活気と疲労で混沌そのものと成り果てた。読者諸君、諸君らは誇り高き勇者か、それとも悪名高き魔物か。私は次こそは魔物になりたいと思う。

 

 

気持ち良いという健康法

 私の生活習慣について綴らせていただく。とり立てて食事に気を使わず生活している私であるが、初心者編の心得は胸に収まっている。ご飯に野菜たっぷりの味噌汁、焼き魚、加えて食べたいものを一品、が毎日のご飯。朝は食べないし昼はオニギリであるから、このメニューは夕食のものだ。仕事終わりにジムなぞ通うこともない。気が向いた時に室内で上・下肢、腹筋を鍛え上げ、その肉体美を窓越しの私にみせつけた。しかして私の体に相談したところで筋トレが許可されることは偶にであり、窓にはいつまでも頼りない私が映るのみである。

 結局のところ『体に気を使った生活習慣』は私の習慣にはならない。そんな私が健康食の代名詞、ヨーグルトの宣伝を背負っているのだから鼻で笑われるのも仕方がないというものだ。しかし、雑言を口にするのはしばし待たれよ。口を開き喉を震わせる前に一つ耳を貸して欲しい。

 私の体は丈夫であった。風邪は年に一度あるかないかのものだし、タミフルの味なぞ遠い昔に忘れてきた。意外と丈夫な私の健康法とは何か。それは全て感覚的な人生観に要因があると思う。疲れて眠くなれば20時には床につく。朝食は食べないから7〜8時間は起きない。夕食はお腹が空いたら食べる。たとえ22時のスペアリブだろうと満足の行くまで胃に敷き詰めていける。疲れてきそうな時、ランチは外でとる。コンビニで軽食とホットコーヒーを購入し、ゆっくりと車を走らせながら食べた。体に500グラムでもダルさが付与されれば、気の済むまで筋トレを行う。余計に体にダルさが積み重なるが、一晩眠ればすべてが体からバリバリと剥がれ落ちた。

 このように、私は体を疲れさせない秘策をいくつか心得ている。そして、それら全てを教えてくれたのは他でもない私の体であった。

 思うがままに生きてみよ。体が赴くまま食べて心地よさの方に向けて歩みを進めよ。気持ち良いことこそ、自分に合った最高の健康法なのだ。最後になるが想像の中でヨーグルトを食べてみよう。酸味の中に甘みがある。口の中で頼りない硬さが溶けて消えた。美味しそうであるなら食べるべきだ。しかし、そうでないなら今は食べるべきでない。食べたくなった時のために、とりあえず購入するのがよろしい。