美女とコーヒーの出てくる本を紹介します

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美女と美味しいコーヒーのある本をご紹介

激レア妄想譚

今週のお題「激レア体験」。

「小さな幸せに気づきなさい」と聞き齧ったのは中校生の頃であったか。『幸せ』という抽象的で、恩恵にも似たモノをどう掴み取るべきか。私は発展途上の頭脳をウンウン稼働させたが、答えを得るに至らなかった。過労働を強かれた私の頭脳は速やかな休息を求め、果ては、このような無理難題を愚かにも解き明かそうとした私の決意を非難した。国語も満足にできぬというのに、幸福論など分かるはずもないのだ。

 「人生の神様は、どうやら簡単には『幸せ』なるモノを掴ませてはくれないようだ」とボンヤリと考えた日から数十年が経過した。私も多少の酸いや甘いを舌先でペロリと舐め、原稿用紙3枚にも満たない人生訓を携える男となった。そして、昔にボロボロになるまで手のひらで転がされた幸福論に再び取り掛かった。あの頃とは比較にならぬ、成長した灰白質に浮かんだことは「細々とした幸せを集めるより、ドカンと大きな幸せを掘り当てた方がエエんじゃないか?」という粗雑な思考であった。どうしてこうなったのか。

 ここでようやく本題である。激レアと言うからには、滅多にお目にかからない現象や状況を差すべきであり、そこに幸•不幸の区別はない。しかして志の高い、気高き存在の諸君らに、どうして不幸が訪れようか。それは私についても同様で、激レアであれば幸福を願うのは至極当然である。

 しかして諸君。私は小さな幸せなど要らぬ。例えば、電車に乗れば見目麗しのアノ子が隣席に腰を据えてくれたり、会計時に対応してくれた可憐なコノ子の手に、釣り銭と一緒に触れてしまったり。思いつく限りでも、ついドキンと心高鳴る場面は多々ある。しかして諸君。惜しい気持ちも認めるが、私は、それらを要らぬと断じるし、欲しいならば持っていっても構わない。なぜなら、それらは、その場限りの幸せだからだ。私は大きな幸せが欲しい。電車に乗れば常に隣席に腰掛け、出歩けば手を繋ぐ。つまり、私は麗しのアノ子やコノ子にとってのラヴァーになりたいのである。なんと素敵な夢だろうか。まさに激レアの名にふさわしい。

 はて、ここまで妄想とも言える恥ずかしい内容をツラツラと書き連ねたが、この激レアはどうすれば我が手中に収めることができるのか。ここが最も難関であることに気がついてしまった。読者諸君、小さな幸せのお裾分けに、私に大きな幸せを貢ぐ気はないだろうか。

ゲーム的下心戦略。

今週のお題「ゲーム」。ゲームとは、つまり、勝敗のつく娯楽である。

 昨今、ゲームと名のつくものは総じてエレクトロなパワーを従え、バチンバチンと覇権を巡る機器となった。古来より受け継がれてきた由緒正しい卓上ゲエムは姿を消しつつあるのだ。

 トランプの端は寄れ、時代のシミを刻む。囲碁はルールすら知らない。花札に至っては、おそらく花札を興じれるモノは、和服の似合う大和美女に違いないと、ニマニマした妄想を掻き立ててくれる代物でしかない。大和美女とお近づきになり、あまつさえ手取り足取り、花札のアレコレを教えてくれるのなら、今すぐにでも興じてみたい。しかして諸君。世の中は甘くない。花札を持ち美女探索の旅に出るよりも、今はオンラインとやらの方が、よほど女子と触れ合える機会が多かった。そもそも、私には美女を前に平静を保ち、本来の聡明で端正な自身を見せてあげる度量など無い。私の胸中には、人には見せられない、淡いピンクと異臭を放つムラサキのモヤモヤが渦巻いており、どうして、コレを美女に見せられようか。見透かされでもすれば、前屈みに逃げ出すほかない。

 話が脱線したが、本筋はゲームのなんたるか、についてである。今も昔もゲームの本質は変わらず。要は勝敗がつく娯楽なのである。諸君、忘れてはいけない。いくら愛らしい動物がヨチヨチと集まろうが、そして、それが想像力を掻き立てる平和な島だろうが、そこに複数の存在があれば、そこには確かな優劣が生まれてしまうのだ。

 私は優劣が苦手である。男に負ければハラワタがグツグツと煮えてしまうし、美女に負ければ下心にポゥと火がつく。どうも、この火加減が難しい。願うことならば男はオンラインで、麗しの乙女たちとは手取り足取りゲームしたいものである。いや、この際オンラインはいらぬ。

今更な、北北西に曇と往け 2巻

〜天然のミネラルウォーターに羊肉。そしてコーヒー

 今更ながら、北北西に雲と往け 2巻(入江亜紀)を読んでみる。今回、実に旨そうなモノはコーヒーのみにあらず。羊肉を歯で毟り取る様子は我らに野生的な空腹を呼び起こし、冷たいミネラルウォーターで喉を濡らす様は口渇を錯覚させた。今巻はアイスランドという土地と食の魅力を詰めた旅路なのだ。

 主人公の御山慧は9月のアイスランドに親友の清(きよし)を招待する。日本での長月とは、紅葉が枝から手を離し、母体の足元に腐葉土を重ね始める季節だが、舞台は氷の名が輝く地所である。四季は愚か、『冬』と『少し暖かい冬』の二季が交互に巡る世界を思わせた。

 来氷した青年が降り立つ地は寒風が唸るも、予想に反し、白雪ではなく緑の土地が広がり、雨上がりの高原には虹のアーチが彼の訪れを歓迎していた。アイスランドには人よりも羊の数が多く、御山慧は彼らの肉も好んで食す。お手製の大量の羊肉のサンドウィッチ、冷めたコーヒーを手に、ガタガタのジムニーに彼を向かい入れた。向かう先はアイスランドの名所の数々だ。

 恐怖と美しさの入り混じった大自然の旅にも休息は大切である。ポツポツと雨の降った日、御山慧と彼の祖父、そして清は屋内で思い思いの時を過ごす。アイスランドでは、水道から冷たいミネラルウォーターや温かな温泉が流れ出す。夢のようなこの体験は、この地では、ごくごくありふれた恩恵なのだ。しかして、ここはアイスの地。やはり、飲むべきは温かなコーヒーだろう。コーヒーを入れたポットがあるが、3人でその芳しさを胃に流し込めば、すぐに空となった。

 ミネラルウォーターで入れたコーヒーならば、さぞ美味かろう。加えてここはアイスランドである。冷えた体には温かなコーヒーと暖かな家、そして気兼ねない友人を。この地は、一人では生き抜いていけないのだから。

音楽と景色と冒険と

 こんな経験はないだろうか。ドライブ中、ふとして「よく晴れた日の午後、アノ音楽を聴きながら、この道を走ったな」と思い出すのだ。車窓の光景と頭の中の音が一致して、懐かしい思い出のような感覚。不意にラジオから流れるアノ音は、私にとって一期一会なのだ。

 大学入学を果たし、2年が経過した頃である。私は父に一台の車をプレンゼントされた。その車は初めて、この地に足を着いてから20年が経過していた。最初は硬く、黒いアスファルトに戸惑いを覚えつつ、その4本の車輪を必死に回転させたのだろう。今ではどんな悪路も走り込めるまでに成長していた。私にとっては生まれて初めてのバディだが、彼(もしくは彼女)にとって、私は3人目の相手らしかった。

 白く小さな車体は、よく見れば所々にサビが浮き上がり、シートには毛玉が目立つ。エアコンをつければカビ臭い。加えて80キロの速度を出そうものなら「そんなに急かさないで!分解しちゃうわ」と、ガタガタと体を震わせ、私の肝を冷やした。車内前方の中央部分には空調の装置と、ラジオのチューニングや音量のつまみがポツンと鎮座するのみで、地図を持たぬ者同士のドライブは常に冒険となった。

 気ままに走り出し、途中のコンビニエンスストアでコーヒー購入する。ラジオは音楽が聴ければ何でも良い。後はどこまでも自由であった。大学生だから時間は十分にある。今まで入ったことのない路地に入ってみる。車一台がなんとか進めるほどの狭い道だ。静かな夏の午後の路地には、私たちしかいなかった。ラジオからは夏の日の木陰を思わせるようなボサノバが流れていた。きっと、この景色がなければ、流る曲に関心を向けることもないのだろう。私の一期一会はアノ曲とコノ光景が合わさって初めて感動に変わるのかもしれない。

 私は社会人になり新車に乗り換えた。小さなテレビ付きであるが、前よりも車内が静かに感じられるのはなぜか。私はバラエティー番組もカーナビも消し、ラジオをつけた。久々に冒険がしたいのだ。

カエライフ×はてなブログ 特別お題キャンペーン #ドライブと音楽

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by ホンダアクセス

応援…してほしい。

 今週のお題「応援」。恥ずかしながら、私は他人を「応援」した試しがない。なぜなら私は、私自身のことが好きで、愛おしいからである。こう言うと読者諸君は、私のことを鏡の前で上裸になり、何時間も自分を見つめてはニマニマと悦に浸る変態と思われるかもしれない。だがしかし、落ち着いてほしい。それは誤りであり、あまりにも気持ちが悪い。そんな妄想はぜひとも、何重にも紙に包んで捨ててもらいたい。私はそんな、ヌルヌルとした濃紫色の汁が出てくるようなナルシストではない。端的に言うと、私にとって他人は全て二の次なのだ。私は、私が一番になると嬉しく、他人の優れた部分を目にすると、ひどく心を動かされ嫉妬した。そんな私だからか、他人を「応援」なぞしたことはない。「応援」するのは常に自分を励ますためであった。そして夜、床について目を閉じるたびに思う。私は今後も変わることはないのだろう。

 世の受験生よ。そして今、大きな壁を乗り越えんとするモノよ。荒野を進もうとするモノ達よ。私は高貴な夢を持つ諸君らを応援できない。きっと声に出そうものなら嫉妬で喉が詰まり、気持ちに表そうとも、それはオブラートより薄く、ペラペラなものになるだろう。だからこそ、各々が自分自身を応援してほしい。自己愛や自己肯定感と呼ばれる不思議なチカラが背中を押してくれるはずである。何より、その気持ちに偽りは無いずなのだ。

 あれこれと500文字程度綴ったわけだが、ここらで率直に、遠回りせず、自分の気持ちを素直に偽りなく伝えよう。なぜ、私が自分以外を「応援」できないのか。それは、私が美女とお付き合いしたいからである。インテリジェンスで魅惑的な美女と肌を重ねたいのだ。ここに偽りはなく、日々、妄想がムワムワと膨れ上がる。私は私自身を「応援」するのに忙しい。そんなわけで、残念ながら諸君らに目を向ける余裕がないのだ。もし、私の「応援」を得たいなら、ぜひ、私の夢を応援してほしい。いや、カッコウを付けずに言おう。切実にお願いすると、私の幸福を願ってくれ。ならば、しかるべき後に、お返ししよう。もちろん利子付きで。

 

今更な、虹の岬の喫茶店

~おいしいコーヒーと音楽♪ 岬カフェ ここを左折~

 今更、虹の岬の喫茶店森沢明夫)を読んでみる。この作品は2014年に『ふしぎな岬の喫茶店』に改名され映画としても上映された。古今東西の珈琲語においてカフェは一種のセラピーの一つに思えることがある。岬カフェも例に漏れず、訪れる人々は何かしらの毒素をその体内にため込んでいた。亡くなった奥さんと残された一人娘を思い悲観する父親、将来に悩む男子大学生など来訪者は様々だが、皆一様に毒素を出してくれる何かを必要としている。岬カフェは小さな岬の先端に佇んでおり、場所はとてもわかりづらい。カフェへの初来訪は偶然の出会いのように描かれた。

 うら若き美女が淹れたコーヒーは美味である。これには反論の余地はない。熟練されたマスターが入れたコーヒーも言うまでもない。では美しいお婆さんが淹れたコーヒーはどうか。どうやら味で楽しませてくれるのみでなく、癒してもくれるらしい。おすすめはホットコーヒー。

 「この店は、ほら、生きてるから」と彼女は語った。店にはお客さんが制作したカップや絵が飾られている。一人一人、別々の人が作っているものだから統一感はない。しかして、それらの作品に包まれていくことで店が完成されていく気配がある。いや完成ではなく成長なのか。生きているのだから、そこにはきっと温かな血液が流れて一定のリズムの鼓動が聞こえてくるのだろう。その場所は懐かしき母親の腹中か。ならば我々哺乳類には抗いようがない安心感がそこにはあるのだ。海辺の道を走る際はぜひ、この店を見逃さないように。目印はトンネル出口付近の小さな立て看板《おいしいコーヒーと音楽♪ 岬カフェ ここを左折》

 

 

愛とアイスとクリーム

今週のお題「わたしのイチ押しアイス」。諸君、ご存知だろうか。古代、アイスはシャーベットのようなものであり『健康食品』として存在していた。そこには「私を食べなさい。健康になりたいのでしょ?」と角が立つもインテリジェンスな女性的雰囲気が漂うのだ。しかして、その冷ややかな態度に争い難いのは今も昔も変わらずである。彼女の冷たい眼差しは暑く火照った人々の体を射抜き、骨抜きにした。そんな彼女にも運命が巡る。それは彼女が渡米した先でのこと。とある訪問先で、彼女の全てを包み込む紳士が現れた。牛乳屋出身のクリーム皇子である。二人は一目で甘い恋に支配され、彼女はかつて経験したことのないフワフワとした口どけの良い心地の中で考えた。私たちのマリアージュは必然であり、そして太古から決まっていたことなのかもしれない。

 この関係は以後数百年変わることはなく、ふとすると、もともと彼女と彼は分離できぬ一つの存在であったと考えていることすらある。かくして、二人は互いに互いを引きつけあい、一つの愛を完成させた。それこそが、『アイスクリーム』である。アイスクリームは愛なのだ。

 夏、外に出る度に、細く繊細な針で肌を突くように日差しが照りつける。風はない。どんよりと重く、そして膨よかな空気が体の隅々に抱きついてくる。湿気が多いせいだろうか、まるで居心地の悪い温泉に頭まで浸かっている気さえして、息が吸いづらい。私は愛を求めて蜃気楼に足を踏み入れた。